昨日の毎週水曜の動画配信は、
「民主主義に疲れたあなたへ~個人の行動制限/ロックダウンで私たちは何を得て何を失うのか?」 として、ロックダウンと憲法上の権利の問題、そして、さらに憲法以前の民主主義やそれを支える我々のコミュニケーションを基礎から掘り崩すぞ!という危惧を叫ばせていただきました。
①まず、憲法上、感染していないし感染のおそれもない人の一般的な移動を制限することは、憲法上のいかなる権利を制限するのか
②諸外国は、どのような法的な整理でロックダウンを認めているのか
③上記からすれば、憲法上の権利に配慮しながら行動制限する方途はありうるのか?
といった点を論じましたが、さらに深めていくと
④やはり欧米のロックダウンの前提には強い「個人」と強い「国家」との対抗関係が存在していると思います。日本は「弱い個人」と「弱い国家」の間で「強すぎる世間」が増幅し、個人を飲み込み、弱い国家をも動かし、全体主義に陥っているのではないでしょうか。それを、ロックダウンの権限や個人の行動制限のための法制化などしてしまったら、ますます全体主義や権威主義を追認してしまうだけです!
⑤さらにいえば、なぜ移動の自由が制限されることが窮屈に感じるかと言えば、それはやはり物理的な身体をもった人間が、物理的移動なしにはコンタクトできない「移動不可能な」価値をもった存在があるからです。人と会う、飲食店にいく、映画をみる、建築物をみる、好きな街にいく・・・これらは実際物理的移動をして体験しなければ味わえない、かけがえのないものだ、という共感があるからこそ、移動が大切だとされるわけです。
こういうものをかけがえのない価値だ、と思えない社会なら、もしかしたら「移動の自由」は軽視されるけど、私はそんな社会には生きたくない(けどそうなりかけている。)
移動は、わたしたちにまだ見ぬ新しい価値や、心地よかったり不快だったりする様々な出会いを与えてくれ、それによって常に自己が再定位されていくのです。つまり、広くコミュニケーションの一種なんですよね。
このあたり、議論は尽きません。
是非、動画をご覧ください!
動画はコチラ
↓
https://www.youtube.com/watch?v=LrOmvjojSh4&t=2986s